わたしは踊りたいものを踊っている。コンプレックスを乗り越えて、いま

今回は、大学院で美学芸術学を専攻なさっている小林未佳さんに御寄稿頂きました。

踊りを見て、学んで、奏でつつ、自身が踊る事には踏み出せないでいた未佳さん。ついに、やっぱり踊りってみたいという思いを開花させた彼女の気付きとは?

 

ロシアからこんにちは。人文社会系研究科修士一年の小林未佳です。今はロシアに短期留学に来ています。

現在は、美学芸術学研究室というところで、19世紀末ロシア芸術を勉強したり、学部入学時からずっと所属する室内楽の会でピアノや鍵盤ハーモニカを演奏したりしています。そこで今回は、ロシアや室内楽の話をすると見せかけて、フラメンコのお話をさせていただこうと思います。

話の流れを完全に無視している!と詰られそうな書き出し、失礼しました。
実はわたし、大学院に上がると同時にサークルを一つ増やしたんです。それが東京大学フラメンコ舞踏団。どうしても入りたくて堪らなかったから入りました。絶対楽しいし自分に似合うんだろうなあ、という直感を無視できなかったのです。そして案の定、この直感は見事に当たりました。

どう考えても踊るなんてこととは程遠い人生だった

とはいえ実は、親には反対され、友達には心配されていました。その理由は「あなたには踊れないから」

わたしの運動神経が悪いのは周知の事実でしたし、任意のダンスを習った経験がありませんでした。高校の行事でちょっと踊ったことはありましたが、そこで浮いていたと笑われた経験で心に傷を負ったほどです。

しかも幼い頃から要領が悪く、何をやっても鈍臭い。体育の時間は悪目立ちし続け、すぐ転けたりぶつかったりする子供時代から変わらぬまま、ここまでやって来ました。どう考えても、自分が踊ることとは縁遠い人生だったのです。

 

踊りを見て、踊りを学び、踊りを奏でてきた葛藤の中で

踊りを見て、踊りを学び、踊りを奏でてきたわたしの半生

一方、踊りへの執着は人一倍深かったかもしれません。幼稚園時代に見学から追い返されて以来、習いたいと欲することこそ度々あれど、ダンス教室に足を伸ばせたことは無かったのです。

まるで欠落を探し求めるかのように、身体芸術の鑑賞に夢中になりました。
中学生の頃はフィギュアスケートに深入りし、まるでテクストを読み解くかのように振付や楽曲やその背景を調べていました。いま思えば、それが芸術研究を志す布石に他ならなかったのですが。
大学生になって上京すると、バレエ作品を直接目にする機会に恵まれ、卒論ではバレエと文学に共通するモチーフについて書きました。現在の研究テーマも、後にバレエ団を設立する芸術家集団の美術理論ですから、やはりバレエとは切り離せないものになっています。

踊りへの執着は、音楽活動にも影響を及ぼしていました。室内楽の会という音楽サークルで、わたしが選んだ曲たちを振り返れば、踊りと関連するものが圧倒的に多数を占めていました。タンゴ、ワルツ、バレエ音楽、民族舞踊がほとんどですね。あるいは誰かがスケートで使った曲。残りの曲も、作者が民族色を意識した曲になっています。

 

踊りを見て、踊りを学び、踊りを奏でる。
自分が踊れないから、なんとかして他の方法でその欲望を満たそうと模索してきました。もちろん、その過程で得られたものは数多くあります。でも、どうしても、自分自身が実際に踊らないことには、根本に燻る執着と折り合いをつけられない。次第にその事実から目を逸らせなくなってきたのです。

 

自分の身体へのコンプレックス

また同時に、わたしが踊りへ執着するもう一つの原因に気付いてしまいました。それは、そもそも自分の身体がコンプレックスであるということ。

願う通りに動いてくれない自分の身体が、そして動かして生じるあらゆる結果が、わたしは嫌いだったのです。年を重ねるにつれ、何の罪もないはずの外見的な要素さえ、自分の身体については自信を損なう原因となっていました。

踊りを鑑賞するのは好きだし、目が肥えている方ではある。本当は自分だって踊りたいという気持ちをずっと抱えて生きてきた。それでも、自分が踊るのは怖い。この身体に出来るはずがないし、今までの鑑賞体験で培われた理想像にはどう足掻いても届かない。その距離感に、きっと傷ついてしまうのだろう。……そう逡巡し、何かと理由をつけて踊ることを避けたまま学部卒業を迎えてしまいました。

 

人生の転機に問い直した「やらずに終わって良いのか」

しかし、修士課程入学という人生の転機において、わたしは問い直したのです。

やらずに後悔するよりやって後悔する方がいいのではないか。
今後なかなか長年の懸案事項を始めようと踏み切る機会は訪れないのではないだろうか。
いつまで何もせずジメジメと自己否定を続け、そのことで生産性のない愚痴を言うつもりなのか。

こうした問いをいくつか立てて、出た結論はこうでした。

やりたいことは言い訳せずに素直にやる。よし踊ろう。

 

多岐にわたる踊りの中からフラメンコを選んだのは、冒頭にも書いた通り「楽しそうだし似合うと思ったから」なんですけど、一番はどうしてもあの華やかな衣装を着てみたかったからですね。

それから、カルメンみたいな女性に憧れがあって、カルメンといえばフラメンコだなあと連想したこと。ちなみにフラメンコで薔薇は咥えません(笑)。
他には、学部時代の恩師から似合いそうだって勧められたことや、スケート方面で敬愛する振付師さんがフラメンコダンサー出身であること。

もう今となっては、理由を後付けしようとしても分からないですね。他には、熟練した経験者と自分を比べてしまうと本末転倒ですから、みんな初心者の方が環境として理想的だなあ、という多少の打算もありました。

 

わたしは踊りたいものを踊っている。今わかる自分の変化

正直に申し上げて、わたしの選択は大正解だったと思います。

どんな難しい内容も習得が苦にならず、着実に出来ることが増えるので、毎回のレッスンで自信がついています。サークルの練習にはプロのダンサーが先生としてお越しになるのですが、その先生がよく褒めてくださるのも一因かもしれません。フラメンコはリズムが複雑なので、長年培ってきた音楽経験が功を奏していること、色んな種類の踊りをたくさん見てきたので、自分の動きをどう修正すれば綺麗に見えやすくなるか薄っすら分かることが、踊ってこなかった年月さえ肯定している気がします。何と言っても、ずっと小さい頃から叶わぬ願いと諦めていた「踊りを習う」が実現したのです。

根深くどろどろと蓄積した否定的な感情が、足を踏み鳴らし手を叩く度に、砂のように流れて溶けていく。
練習中に鏡に映る姿からぎこちなさが消えていくにつれ、常により良いものに変わっていく身体を目の当たりに出来る。
技術が高いとか見た目が美しいとかの問題ではなく、無条件に自分の身体を肯定して、受け容れて、愛せるようになりつつあるのが感じられます。

 

昔からわたしのことを知っている人には、フラメンコを始めたと話してもなかなか信じてもらえません。本当に踊れているのか、と疑う人さえいます。それでも全く構いません。上手かろうが下手だろうが、わたしは踊りたいものを踊っているのです。それが最も大切なことなのです。

 

 

大学院に入学してから半年間、あまりにも踊ることしか考えていなかったので、さすがにそろそろ本業の研究に精進せねばなあ、と思います。が、せっかくこうして自分の身体と良好な関係が築けるようになったのですから、今後もずっとフラメンコは踊り続けていきたいです。

もし、ここまで読んでくださった上に、フラメンコに興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、ぜひ駒場祭での公演を見にきてくださると幸いです。一般的には「官能的な短調の曲」と分類されるものなので、いま必死でシリアスさと色気を身に付けようと奮闘しているところです。

それでは、お読みいただきありがとうございました。

ロシアより愛を込めて。

 

未佳さん、どうもありがとうございました!

憧れていたけど、遠慮してきたもの。皆さんもあるのではないでしょうか?未佳さんのように、一歩踏み出す事で、見えてくるもの、必ずあると思います。そして、何よりそんな自分が一番幸せです!

ちなみに、わたしも高校生の時はダンスが下手で有名で、大学入学時にチアに入った時、とんでもなく驚かれたのを思い出し、勝手に共感してしまいました。笑
その後も苦労はしましたけど(!笑)、この一歩を踏み出して貴重な経験をたくさんさせて頂きました。今振り返ると、なんだかんだ楽しくて仕方がなかったです!

では、皆さんもやりたかった事にチャレンジできますように!そして、本当に好きなことが見つかりますように!

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